2012年8月4日土曜日

男性自身 木槿の花

今週も無事に週末を迎えた。

公私を区分すれば、
「公」の部分は、つつがなくこなせたように思うが、
「私」の部分は、以前にも書いたような厄介事が解決せずに山積している。まあ、ちょっと甘いが、今はこれでヨシとしよう。こうやってこらえていれば、そのうち風向きも変わるだろう。

昨夜は、金曜であったが、吞み会などもなく、乱雑に積み重なった書棚を整理しつつ自宅で静かに本を読んでいた。数日続いた猛暑がウソのようにピタリとみ、肌寒さを感じるほどであったので、吸いこまれるように文字を追うことができた。

書棚の奥の方から出てきたのは、
山口瞳氏の男性自身シリーズ文庫本約10冊であった。氏の作品はリアルタイムではなく後追いで買い求めたので、足でかせいだ、という印象が強い。1冊ごとに「これはあそこの古本屋で」「これはつぶれたあそこの本屋で」と記憶がよみがえってくる。

自宅スペースの問題から半年に一度くらいの割合で、読み散らかした書籍を処分するのだが、それを何年も繰り返していくと、自分の嗜好フィルターでろ過しているようなものだから、蒸留される書籍は明らかに一定の傾向をみせることになる。私の書棚には、氏の作品は顕著に残り続ける。すなわち、手が合うのだ。

昨夜手にしたのは「男性自身 木槿の花」(だんせいじしん むくげのはな)である。週刊新潮に連載されていた随筆「男性自身」(決してエロではない)を取り纏めたシリーズであるが、この巻に限っては、前半部分はきわめて秀逸な小説であるといってよい。向田邦子氏の突然の死を悼む内容であるのだが、文章のリズム、秘められたエピソード、何よりも山口氏の向田氏への強い思い入れが、行間から溢れだしてくる。

私が読んだかぎり、向田氏の追悼文を発表した作家は、総じて名文家が多いのだが、これほどの思い入れで書ききった作家は、山口氏が筆頭だろう(じゃあ、久世光彦氏は?との声も聞こえてきそうだが、氏についても無論同様である。この両人が、向田氏を巡って一種の仲たがいをしていたらしいのは、これまた興味を引く。いずれ機会があれば、これらも書きつけてみたい)。

整理をするつもりで書棚をいじりはじめたが、毎度こんなことで手が止まる。

作業はなかなか終わらない。

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