2012年8月9日木曜日

あいまいな日本の私

自分でも思うが、今回はすごいタイトルを冠した。

たしか、大江健三郎氏がノーベル文学賞を受賞した際の基調講演が、こんな表題であった(同賞を日本人で初めて受賞した川端康成氏の基調講演「美しい日本の私」を意識したものであったはずだ)。しかし、タイトルは大仰であるが、別に文学論をぶつ訳ではない。

報道を見ていて、日本語は、つねにあいまいな余韻を残すものだ、と感心した。

例の「近いうち」「近い将来」発言だ。

適度にザックリいえば、首相が、野党第1党の総裁に対して、法案を通す見返りに解散を要求され「近い将来、国民に信を問うから、法案通してよ」と説明したが、「近い将来って何いってんだコラーッ!」とねじ込まれ、「じゃあ、近いうちに、国民の信を問うからさ、お願い」と再度説明したら、「そうなの?なら、まっいいか」と落着したとの一件である。

うごめく永田町の様相は、なで肩のニュースキャスターが22時過ぎに説明すればいいだろう。

そんなことより、日本を動かしている政治家、それも相当なランクの政治家が、禅問答のような言葉のやりとりで、国民が右往左往するような流れを決めていくなんて、なんと懐の深い所業であろうか、と私は感心した(密約説もあるが、よくわからんので、そこは無視する)。

揶揄するようなニュアンスになってしまうが、
「今度、近い将来、呑みに行こう」
「今度、近いうちに、呑みに行こう」

「A選手、近い将来、レギュラーをとりますよ」
「A選手、近いうちに、レギュラーをとりますよ」

「あのラーメン屋、近い将来、つぶれるな」
「あのラーメン屋、近いうちに、つぶれるな」

あげればきりがないが、上の3例を見ても、会話の臨場感が伝わらない限り、どちらがどうなのか、何が違うのか、正直わからない。

ただ、会話の中で、近い将来、なんて言葉を使うやつは、相当ウソくさいやつだな、とは思う。
今後、近いうち、の解釈をめぐって、都合の良い言い争いがはじまるだろう。

あいまいは、悪いことじゃない。
こんなときに使うやつが悪い。

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