先週末、
仕事3割、道楽7割といった感じの2泊3日の旅をしてきた。
行き先は、これまで何度も書いてきた、私が小学3年からから中学1年まで暮らした道東のマチである。メンバーは、いつもの常連3名の旅仲間と私(関係ないが、私以外の3名をイニシャルで記載しようと思ったら、いずれもYとなることが今判明した。どうでもいい情報だスマン)。
なお、我々の旅活動は、かねてよりこのブログで気が向いた際に書き付けてきた。皆様も気が向いたら、さかのぼってご一読いただきたい。ずいぶん探しにくいとは思う。その点は申し訳ない。
金曜午後にこちらを出発し、クルマで約2時間。
今回は、一番年長のY1がクルマを出してくれた。
春先に替えたばかりのほぼ新車である。空に飛んでいきそうな加速でありながら、車内は静か。本人のルックスに似つかわない、とてもいいクルマだった。
仕事3割、といったのは、
約ひと月後に私とY2が、仕事がらみで、この地を再訪するからであり、今回はその予習を兼ねた、いわば先遣隊といった立場であるためである(ただし、Y1とY3にしてみれば予習不要の道楽旅である)。ある意味、失敗は許されない。
夕刻に到着した我々先遣隊は、
ホテルにチェックインし、さっそく居酒屋にてひと月後の予習を行う。
あくまでも予習のために、ソフトクリームのような泡立ちのジョッキ生をシブシブいただく。モツ鍋も、串モノも、お造りも先遣隊として仕方なくいただく。予習の結果、ひと月後にこの店を再訪することが決定する。冷酒が効いた。すなわち合格である。その日は、それ以上の予習演習も実施したのだが、諸事情を勘案して割愛する。すなわち不合格である。
翌日早朝、
昔住んでいた、なじみのある方角へ向かい散歩する。
懐かしい、といっても5月の休日に来たばかりである。劇的な変化なんかあるはずもない。
ただ、母校の小学校グラウンドで、早朝から少年野球をやっていた。
親たちも集まっている。この後、他のチーム(H町から遠征してきたようだ)と練習試合が行われるようだ。歩くのをやめ、立ち止まって見ていると、保護者と間違われたのか、しきりに挨拶をされる。子供たちからも気持ちよく挨拶される。不審者に思われぬよう、極力にこやかに対応する。
グラウンドでは、
逆向きにグラブを出す子供に「腰より低いゴロは下からグラブを出すんだ」とコーチが指導している。意味がわからずキョトンとする子供。そして困った顔。そうだよな、自分の感覚で掴めるまでは、試行錯誤するもんだよな。
そうやって子供たちの「バチコイー」の声出しを聞いていたら、
この同じグランドで30年以上も前、自分がやっていた野球のことを思い出した。どこの引き出しが開いたのだろう?一瞬で光景が広がった。不思議だ。またこっち系のスイッチが入ったか。
私が所属していたのは、柏カムイオークス。
このチーム名は、一代限りの超リミテッドだった。
1年限りで退任したOコーチ(本業が寺の住職だった。過去に書いた幼なじみのM君情報では、数年前に他界したという)が命名者だった。
監督は、本業が国鉄バスの運転手だったTさん。俺と同じ右投げ左打ちだった。
「なにチンタラチンタラやってるんよ!このポンタロウ!」が口癖だった。
Tさんちの子供は女の子しかいなかったから、野球をやってる俺たちを実の子供のように可愛がってくれた。
トメ、というあだ名のピッチャー。双子の妹がいた。球が伸びてくる感じがした。
何の加工もなく本名で呼ばれていたキャッチャー、ツジ。
グラブ捌きが上手かったファースト、スケサン。
肩が痛くてショートからセカンドへコンバートされた、俺。キャプテンだった。
運動神経が抜群だったサード、タック。
無口でまじめだった転校生ショート、ワンテ。
6年になってから急成長し頼れる主砲となったレフト、カツミ。
大食いのセンター、シンピン。
負けず嫌いなライト、マコリン。
面白いケンボー、オヤジが審判だったヨッチ、途中から坊主頭にイメチェンしたジョッチャン、ピッチャーから外野にまわったエンコリン、しょっちゅう練習についてきてたエンコリンの弟タクロー、複雑な家庭だったイワセ、家が近かったモトキ・・
仲の良いチームだった。
このメンバーで最後の十勝大会で準優勝したんだよな。
一切、音信不通だ。いや、おそらく音信不通なのは、転勤族の倅である俺のほうなのだろう。みんな元気なんだろうか?
明日も早起きして、ここらの小道をくまなく歩いてみようと思う。
更なる思い出はよみがえってくるか?(気が向けば次回)
写真は、母校の旧校門と昔からあった不思議な建物の幼稚園。