そういう生活が10年くらい続いている。
初めて観たのは、圓歌師匠。
十八番の「中沢家の人々」でホール生落語(明らかな造語だね)の筆おろしをさせていただいた。
このネタをとっかかりにナマの世界に足を踏み入れたとなると、
孵ったばかりの雛鳥が初めて見たものを親だと思う定理に当てはめれば、
自ずと向かう先は、創作落語の爆笑系、ということになる。
ただ、現実には、こっち系を標榜する演者自体が少ない。
そんなわけで、こっち系(どっちだ?)が好きであることを前提としながらも、
代替的にやむを得ず、少しずつ古典フィールドにも広がっていき、
そしてあるときから、そっち(だからどっちだ?)が本流なのだ、とも自分なりに理解したのだが、
そういうジャンル分けがそもそも無意味であって、
圧倒的な格として無視できない存在、ドンがいることに早い段階で気づいていた。
いわずと知れた、現代の大看板、立川談志家元である。
しかし、タメることなくサラッと書くと、
私にはまだ早いか?という敷居の高さが災いし、家元との邂逅は叶わなかった。
意を決してチケットを購入したとき、私に肩透かしをくらわして、家元は逝ってしまわれたのだ。
(いま思えば、圓歌師匠を観ておきながら、談志家元の敷居が高いと考えた理由は、なんだったのだろう?)
出典がうまく引けないのが申し訳ないが、
家元は生前に
「芸人は、基本的に自分のことを語りたいものだ」という趣旨のことをいわれている。
ただ、私がねじれているところは、匿名性を守りながら、自分のことを語りたくなっていることである。
困ったもんだ。
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