2012年7月26日木曜日

だいたい1か月

ブログを始めてから、約一カ月が経つ。

日常生活の中で、
「こんなの始めました」と私のほうからブログの存在をカミングアウトした相手は、わずかに二人だけである(旅仲間のY氏と同好の先輩A氏)。今後もこの極端なクローズ度合いが激変することはないと思うが、よしなしことをダラダラと書きつけていきたい。

ただ、こんなマイナーブログでも、冗談抜きで世界各国から不特定多数の方々の訪問を受けているらしい(ブロガーの機能で、どこから訪問をうけたのか、国別データが見られる。単に経由地なのかもしれない。一部英語だからよくわからん)。

そういう方々がどうやってこちらにたどりついたのか、まことに不思議であるが、なんであれ、縁があってこんな文章をお読みいただいている、まだ見ぬ国内外の方々にはお礼申し上げたい(けど、ホント不思議だね。どうやってたどりついたのかね?)。

4年前、このブログをやろうと考えて、ガリガリと設定をしたが、その思いは束の間でしぼんでしまい、以来ズーッと放置していた。そんなことを初回にも書いたが、そもそもなぜ4年前に一瞬でもブログを始めようと思い至ったのかを記していなかった。

その頃、私は一度死んでいた。

言い回しが適切ではないけれど、当時私は、死の可能性が極めて高い病気にかかり、治療のため半年入院した。聞いただけで誰もがヒクような病名を主治医にアッサリ告げられたとき、大げさではなく、あ、俺死んだな、と思った。

ただ、そうは思ったけど、そんな後ろむきなことばかり考えても仕方がないので、キビシイ治療が予定される戦いだけど、やるだけやってみようと思い直した。半年が過ぎた。

おかげで、毛が抜けたり、ゲーゲー吐いたり、それ以外にも諸々とてもツライ戦いばかりであったけど、周囲の手厚い助けを受けて、なんとか無事に生還できた。今でも定期検査は欠かせないが、幸いにして病気再発の兆候はみられない。けど、なんだかここら辺りの闘病生活は、冷静さを欠きそうで、これだけ年月が経っているのに、まだ上手く書けないな。いずれ、なんとかしようか。

とにかく退院後、社会復帰するまでの間、リハビリを兼ねて新しいノートPCを購入した。
無事生還したとはいえ、全く未来が読めない状況で、何をどうしたらよいか整理がつかなかったので、新PCという物欲に走っただけ感は否めない。で、そんなときPCを触りながらフッと浮かんだのが「ブログでもやってみるか?」というものだった。何かを書きつけて遺したいと思ったのか、気まぐれだったのか、自分でもわからない。わからないけど、とにかく、文字を打ち込めばいいだけの状況に環境は設定した。

しかし、社会復帰を果たし、バタバタした日常に戻ってみると、
そういったいっときの書くという熱意や感傷は、いつしか忘れてしまった。ものごとの移ろいとは、きっとそういうものなのだろう。単にズボラってこともいえるだろうけど。

で、とにかく、それから4年経った。
どういうわけか、その頃を思い返したように、こうやって今、打ちはじめている。なぜ、そうなったのか?これ自体説明はつかない。なるようになるだけなのだ。理由などは後付けであって、真相は俺にもわからんのだ。醗酵したってことで、お茶を濁す。

今日も朝が来て、一日がはじまる。
そして今年も、北のマチの夏を迎えられることに、大いに感謝したい。

2012年7月25日水曜日

いじめの周辺


滋賀県大津市で陰湿ないじめ事件が露呈した。

いじめは絶対あってはならぬ、という錦の御旗の下、
現在、事件関係者は、あらゆる方向からつるしあげを食らっている。背景は承知していないが、事件そのものをもみ消してしまおうとする隠蔽体質がうかがわれ、ここへの批難を発端として、あらゆる燃料が投下され、炎上しているようだ。

しかし、一部報道では、同じ苗字というだけで、全く無関係の人が犯人(の親族)扱いを受け、迷惑をこうむったとの話もあるようで、正当化した感情に任せて、思慮なくヤラかしてしまう不手際さは、とてもいただけない(そのヤリクチ自体がどうかと思うが、いずれにせよ、誤射はいかん、誤射は)。いじめをなくすことより、関係者を糾弾することに、みんな熱心なように見える。

私の小学生時代、S君という同級生がいた。

家は食堂を営んでおり、遊びに行くと厨房にいるお母さんがラーメンを御馳走してくれた(残念ながら、あまり美味しくはなかったような気がする)。お父さんは市議会議員をやっていて、S君はそれを自慢しているような風情があり、露骨にドヤ顔をするときがあった。クラス内でも、変な空気が流れることが時折あり、みんながその言動にイラッとしていた。あのやろう、食堂じゃなかったら、ラーメン食わせてくれなかったら、いつかヤッてやる、という暗黙の了解があった(気がする)。S君にすれば、知らぬが仏だったのだろうし、平和的な日々を送らせてくれたお母さんの優しさはなんと偉大なものか、とも思う。

やがて、S君とは別々の中学に入学し、お父さんが何期目かの当選を果たしたとき、S君がいじめられて?(あるいはいじめて逆上されて?)、小刀で刺された、という噂を聞いた。何があったのか知らないが、ああ、ついに起きたか、と少年心にも感じた。自分の手柄ではないはずの出自を鼻にかけ、いらぬ憎悪の対象になったことは容易に推察できた。刺した加害者が悪いのは当然だが、S君、もうちょっと空気読めよ、との思いのほうが強かった

騒な傷害事件だから、おのずと話が大きくなり、結局加害者は転校させられたようだ。S君側が加害者の謝罪を受け入れず、激怒した父親が教育委員会とかけあって措置されたと、のちに聞いた

S君はいま、どんな生活をしているのだろう?

2012年7月23日月曜日

どうした横綱

先週の土曜、たまたま大相撲名古屋場所14日目を観ていたのだが、え?と首をかしげる場面に遭遇した。

メディアでも取り上げられているからご存じの方も多いだろうが、横綱白鵬(はくほう)と大関稀勢の里(きせのさと)の一番である。この場所、横綱は13連勝、大関日馬富士(はるまふじ)とトップを並走する形で、賜杯争いは完全にこの2力士に絞られていた(この取組前に日馬富士関は既に14連勝を決めている。)

土俵下に控える横綱はずいぶんと発汗しているように見受けられた。場内は暑いのだろうがライバル日馬富士関はそれほどの汗には見えなかった。

そんなこんなで、結びの一番は、稀勢の里関の気迫が空回りして、立ち合いで2度突っかけた。まさに突進という感じでどうにも間合いが合わない。多少ズレても受けるかと思ったが、ゆっくりすぎて横綱も立てない。イラッとしたのか、頭を下げる大関の胸を軽く小突いた。ざわざわする場内、3度目の仕切り。

・・・ハッケヨイノコッタ。
勝負は、横綱がヒラリと変化して、大関がバッタリ。わずか1秒の相撲。アッという間だった。

以前にも増して、ここ数年来、横綱(の立場)は、品格だの矜持だのを持ち出されて、品行方正を旨とする型を世間に押し込まれてきたが、その線からいうと、この一戦は糾弾されてしかるべき内容ではあった。内館牧子女史がなにほど立腹されているか、伺ってみたいと思ったし、同じことをデーモン小暮閣下にも伺いたいと思った。(やくみつる氏には氏自身の頭髪問題の疑義のみ伺いたい)。

私は輪島、北の湖以来、ときに熱心に、ときに冷めつつ相撲を見てきたが、横綱が格下相手にヒラリとやったのは、記憶にないし、そんなことはルール上ではオーケーでも、情緒が許さないものと思っていた(たとえば、ジャイアント馬場が勝ちを急ぐあまり反則するか?ということだ)。

特に朝青龍関(ヒール)との比較において、白鵬関は断然のベビーフェイスであり、よりよき相撲界へ導いてくれる理想の横綱と思われていた。脊髄反射的な動きであったのだろうが、残念という思いと、ホントか?という戸惑いを受けた。

「人間だもの みつを」と「ノブレスオブリッジ」が天秤にかかる。

結局、賜杯は日馬富士関が手にした。
来場所の横綱の圧倒的な強さに期待したい。

2012年7月20日金曜日

日常からの逃走は必要だ さんざ落語会

昨夜、久しぶりに落語会に行ってきた。柳家三三(やなぎや・さんざ)独演会である。

知らない人にとっては、ルビを振らないと名前すら読めないと思うが、知っている人にすると「さんざ」を通り越して「ミミちゃん」なんて呼んじゃうほどの人気の噺家である。今後の伸びシロは大のはずだ。

昨年、昇太師匠と花緑師匠との三人会(ホール落語ではよくある形態です)で師匠の明烏(あけがらす)を初めて聴いて(観て?)、ちょっとコミカルであって淀みない口調にとても好感をもった。以来、師匠はけっこうな頻度で北のマチには来ていたのだが、なかなかこちらの都合がつかなく、このたびようやく念願の再会となった。いやがおうにも期待が高まる。

で、観ました。

いやあ、スパッと歯切れのいい、実にアッという間の2時間だった。久しぶりに笑った気がした。
芸がどうのこうのは、私にはわからない。ただただ、リズムや口調が心地よく、品が感じられ、引きこまれた。

ちょっとピンボケ。けど、いい時間を過ごさせてもらった。
落語に限らず、生で観るライブのよいところは、つかのま日常を忘れることができることかもしれない。(この行きつくところが、談志家元がいっておられたイリュージョン落語、っていうことなんだろうか?正直よくわからん)

実は、日常を忘れたい思いが強かった。以前に書いた私事な懸案は、解決どころかズブズブの状況にはまり込んでいるし、まさにこの独演会に向かっていたときに、痛恨の速度違反で3点とられた(ゴールド免許取得の野望がまたもや消えた。ずいぶん高いチケット代になった)。書き出せばまだまだあるが、乱高下するバイオリズムが続く中、日常を忘れ、リフレッシュさせてくれた効用は大だと思う。

人生はこうやって続いていくのだろうか?
それにしても、1万オーバーの反則金は、痛いぜ。

2012年7月19日木曜日

偶然の邂逅

北のマチも夏の気配が色濃くなってきた。


昨夜は窓を開け、網戸にして眠ったが、どこからか室内にコガネ虫?が侵入し、微妙に気になる羽音を立て飛び回り、こちらを混乱させた。たかが虫一匹なのに、暗闇でブンブンいわれるだけで、なぜあんなに恐怖心がおきるのだろう?(ちょっとしたパニックになるな、あれは)

結局、目がさえてしまい、夜中に捕物帳大作戦を展開することになった。目を皿のようにして四方を睥睨し、1時間以上かけて追跡、及び腰ながらガムテープで退治した。
夏の朝によく出向く場所。西岡水源地

私にはもともと不眠の傾向があるが、
そんなこともあって今朝は明らかな睡眠不足である。


仕事柄、インターネットで先行事例を検索することが多いのだが、昨日その作業中、懐かしくも嬉しい邂逅があった。
ある学校のホームページを検索していたら、そこの校長が私の中学3年時の担任であったのだ。名前を見た瞬間、顔が浮かんだ(すごいな、ヒトの脳って)。

先生は当時、それはそれは熱血漢で、今では問題になっちゃうくらいビシビシ鉄拳を食らわす方だった。どうやら熱心に学校長ブログを更新されているようで、その内容から変わらずにご活躍されている姿が拝察された(私も言えたもんじゃないが、先生の外見は相応に変貌していた。)。

なんだか郷愁めいた気持にかられ、連絡先にメールを打ってみた。先生の立場からすれば、教え子は少なくとも千人は下らないだろう。こんな一生徒を覚えてくれているものなのか?

もし、返信があったなら、25年の時を超えて私が住む北のマチよりさらに北のマチに住む恩師を訪ねてみたいと思う。

ぼんやりしているが、夏の楽しみがひとつ増えた。

2012年7月17日火曜日

雨がシドイ (お台場桑田氏ライブ)

振れ幅の大きい、いろいろあった3連休だった。

前回書いたような連休初日のグッタリするようなことばかりでなく、
別な方向では、嬉しいこともあって、外敵が現れたことで内部の結束が高まるというような、たとえばジャイアンが映画版では(って、これは一回書いたな)、じゃあ、金上が出現して山岡と海原雄山が力を合わせる(美味しんぼの50巻代にでてくるはず)みたいな感じだった(スマン。自分でもあきれる。わからんな)。

昨日は比較的ゆっくり過ごすことができた。
録画していた桑田氏のライブを5日遅れでようやく観た(もちろんボルヴィックを飲みながら)。楽しい番組だった。

放送時間の関係から2番がつままれていたり(会場では全ての曲がフルバージョン歌唱だった)、場内がグッときた桑田氏から大塚氏への激励トークは、あの場面じゃなかった気がしたが、プロの編集とはこういうものなのか、と興味をもった。俺には何ら活かされることはないけどさ。
連休中まつじん本店。うどんオーダーしすぎ。
それと、番組内でも、雨が相当降っていたのは伝えていたが、場内で観た五千人といわれる方々に尋ねてみたいことがある。

お客さん、どうですかー(猪木風)
雨、あんなもんじゃなかったよねー?

私は、透明な合羽を着こんで会場にいたが、
「まちーのひがー」と桑田氏が歌いはじめたとき、
あまりの雨の猛威に、中断しちゃうんじゃね?と一瞬不安になったほどだ。

天候、周辺の状況、その他あらゆる局面から
集中して聴くことが難しいほどの雨だった。

このブログを見る該当者はきわめて少ないと思うが、
改めて伺ってみたいものだ。

しかし、本当にいい体験だった。
さあて、仕事に行こうか。

ゆっとくが、
俺はまだまだ、こんなもんじゃないぜ。

2012年7月15日日曜日

前途は多難なのか

3連休の初日(つまり昨日)、きわめて重要な用事があって、初対面の人に会うことになった(妙齢の女性です)

こちらの都合で、場を設定してもらったものであったが、事前情報では、こちらのニーズを聞き入れてくれるかは贔屓目に見て五分五分、冷静に見て難しいとのことであり、たとえ先方から厳しい言葉を投げられても、理不尽な対応をされても、最後まで決してキレることなく、誠意をもって話し合いをしなければいけない状況であった。

言葉上の行き違いや、ボタンの掛け違いがあってはいけないので、あくまでその場その場で、変に作らず、自分の心から発する素直な言葉で率直に話そう、と考えていた。そうすることで道は開けると信じていた。

ところが・・・
相手には、そもそもボタンが付いておらず、いってみるならファスナー仕様だった。

冷静になるため本日なぜか芦別へ。冷静か?
眼を吊り上げ、鬼の形相で、半身に構えた体勢。社会人として初対面ではあり得ないほどの喧嘩腰と言葉のチョイス。すべてがNOというための理論武装、話などはじめから噛み合うわけがなく、みっちり3時間にわたり普通の大人では味わえないほどの罵詈雑言を受け続けた。逆にその徹底ぶりにこちらも面白くなり、我が国では基本的人権が保障されているのですよ、ということを教えてやりたい衝動にかられ、名前は忘れたが、高校時代の公民の先生が常に履いていたスラックスとまぶしい白い靴下が頭に浮かんだほどだった。

私にも十分な言い分があり、立場的にこちらの都合でアポをもらったとはいえ、何から何まで一方的に言われる筋合いはない。出された条件、矛盾を孕んだ勝手な理論で悦に入る先方に、ホトホト馬鹿らしくなり、途中で席を立つことも考えた。それでも先方が年長であったのと、場をセットしてくれた方のためにも、誠意をもって話し合いに臨むことが大事だと決めていたから、大人の対応につとめるよう自分に言い聞かせ、幾度も水を飲んでこらえた。尿意を悟られるのも癪で、意地でトイレにも行かなかった。

当然、話し合いは決裂した。

決裂後、この場を設けてくれた方に改めて伺うと、(若干は事前に聞いていたが)先方は、本人に自覚はないが、昔で言うところのヒステリー持ちで、まともな時もあるが、基本的に理解できぬ言動が多く、起伏の激しさに身内も相当戸惑っているとのことだった。(その情報、もっと詳しく先に言っといてくれ、って話。)

さて、これからどうしたものか。
心静かに桑田氏のライブを見ている場合じゃないな。


2012年7月13日金曜日

雨の恩寵

旅の余韻に浸りつつ、ポツポツ仕事をしている。今日を乗り切れば、もう週末だ。
11日に放送された桑田氏の音楽寅さんは、録画したがまだ見ていない。
3連休の楽しみにとっておく。

それにしても、お台場はすごい雨だった。
ファンの間では有名だが、桑田氏は雨男である。ここ一番で雨が降る。

今回も雨男の面目躍如とばかりの、これだけ降れば文句も出ないだろう、というほどの圧倒的な雨だった。(貴重なライブだったが、雨に負けて途中退場した方もいたようだ。通路側に陣取っていたので、その様子も垣間見えた。体調にはご自愛ください。)

「東京」のイントロ前に急に勢いを増した豪雨と、
「東京は雨降り~」のときにさらに勢いを増した大豪雨と、
それが故に異様に盛り上がった場内の熱気(大声で合唱した)は、画を通してどれだけ伝わってくるのか、視聴(録画だけど)を楽しみにしている。

北のマチも、まさか私がもって帰ってきたわけでもないだろうが、雨が続いた。連日傘をさしての出社が続いている。特に昨日はひどい雨だった。梅雨はないといわれているが、ここ数年来、ジメジメ度数は確実に上がってると思う。

実は昨夜、水つながりでうれしいことがあった。
自宅でボーっとしていたら、滅多に鳴らないインターフォンが鳴り、出てみるとS川急便の配達のお姉さんだった。受け取るとけっこう重たい荷物で、何のことかと開けてみると、ボルヴィック500ミリが24本!そりゃ重いわな。

ありがたいことに何気に応募したキャンペーンに当選したらしい。
桑田氏との邂逅以来、ずいぶんと水に縁があるようだ。ボルヴィックを冷やして飲みつつ、雨に打たれた自分を確認する週末になる。

2012年7月12日木曜日

私的な上京物語4

先頭車両から。お祭りだった
茅ヶ崎に別れを告げて、藤沢江ノ電に乗って鎌倉に向かう。ハジからハジまで乗っても290円。安くてなによりだ。天候もいつしか回復し、太陽が照りつける快晴となっている。まったく、太陽は罪な奴なのだ。

せっかくだからと、先頭車両に乗り込む。

桑田氏の造語であるエボシラインを横目に、小さい電車はガタガタと走っていく。江ノ島、七里ヶ浜、稲村ヶ崎、由比ヶ浜と馴染みのある駅名が次々にあらわれる。昼食にビールを一杯ひっかけたので、電車のほどよい揺れと相まって、極楽寺あたりでこちらも極楽モードに突入。

天丼オールスターズ

 なんていい日なんだ!




やがて終点、鎌倉に到着。横浜に向かう。
ベタな巡礼旅のシメは、やはり横浜関内の天ぷら。原由子氏のご実家「天吉」で一丁上がりだ。ほどよくタレがカラんだ、サクサクの天丼とシジミのお味噌汁。おしんこも美味だった。もちろんビールも一杯。大人っていいもんだ。

会計をしようとレジに向かうが、レジ横に何気に置いてある「酒と涙と男と天ぷら」なる多少ふざけたタイトルの本が気になる。レジのおじさんに尋ねると、売っていますとのこと。じゃあ買います、ってことになり、よくよく話を伺うと、レジのおじさん(失礼!)こそが、この本の著者であり、由子氏のお兄様であった。

お兄様は「ユーコにこの本のあとがきを書いてもらったんです」といいながら、朗らかに本にサインをしてくださり、2ショット写真にも気さくに応じていただいた。混雑した時間帯でなかったのが幸いだった。サザンの宣伝効果なんかなくても、余裕で一本立ちできる味と風格に満ちていた。堪能しました。ごちそうさまでした。


深い時間を迎え、さらにY氏と関内エリアを徘徊する。
予約した宿に戻ったのは、翌日だった。

満喫の旅は成就した。

このブログを目にする機会がないのは分かっているが、親切に対応いただいたハラボーのお兄様には、この場を借りてお礼申し上げる。(前回と同じシメ)





2012年7月11日水曜日

私的な上京物語3

ラチエン通りから海へ。エボシ岩が彼方に。
ラチエン通りは、
呼べばすぐに逢える、そんな静謐さが漂っていた。
歌詞に謳われたシスターのモデルは、今も近辺でご健在らしい。

ゆっくり歩いてみたが、
海に向かう、あるいは海から戻る幾人かと、すれ違った程度である。むろん、海に、といっても漁師系ではない。
彼らの基本姿勢は、自転車の右側にU字状のバーを2つ装着して、サーフボートをはめ込み、ウェットスーツを着込み、ギコギコと行くのでである。すなわち、サーファーである。

この地に生活する人々にとっては、これが日常の光景なのだろう。
海への密着度の高さにちょっとしたカルチャーショックを受けた。

そして、
さらに海に向かって進むと、
右手の奥まったところに、昨日書いた、どうしても見たかった3つ目の目的地があらわれた。

開高健記念館

エッセイ、ルポ、コピー、人生相談、冒険、そして本業の小説。
私が10代の頃にとりつかれた文豪である。奇しくも数日前から「オーパ展」なる特別展示がされているという。自宅をほぼそのままに保存し、資料を展示しているらしく、それだけでマニアにはたまらない。さっそく中に入ってみる。
それだけで、すでに文豪の気配がする。
それだけで、ワクワクする。
シマジはいないのか?数多の肉筆原稿を目にし、ちょっとクラクラする。

この語彙力に圧倒され続けて、翻弄され続けて、
俺は、ここまできました。
お逢いできて光栄です。
貴重な資料の数々が眠っています。悠々として急げ!

原稿、メモ、釣り竿、ワイン、愛用品の数々。
「あのときのあれがこれか!」
「これがあのときのあれか!」(意味不明だな)
目の前の貴重な資料が呼び水となって、読み漁った頃の、その当時の自分の姿までがよみがえる。時間を忘れてしう、ウットリするような体験だった。館員(学芸員さんか?)との作品にまつわる会話も楽しかった。井伏さんと開高さんのエピソードは、俺のほうがよく知ってたのは、ちょっとエヘン、ってなった。

このブログを目にする機会がないのは分かっているが、親切に対応いただいた館員の方にこの場を借りてお礼申し上げる。オーパ!

2012年7月10日火曜日

私的な上京物語2

昨夜、快晴の東京から、雨交じりの北のマチに帰ってきた。

バス、地下鉄、鉄道、ゆりかもめ、ダッシュ、徒歩、硬軟取り混ぜた多種多様な手段を使い、
詰められるだけの日程を詰めて、周遊してきた。

初日のお台場ライブで、笑うほどの大雨にたたられて、
大袈裟ではなく、ホントに靴が水没したため、
就寝前にドライヤーで強制乾燥を施したが、内部が微妙に変形したようで、以降どうにも足回りが芳しくなく、2日目の昼には足裏に水ぶくれができてしまった。

しかし、そんなことは遥かに超越した、実に楽しい3日間だった。
(微妙に変形した靴は自治体のゴミ分別ルールにしたがい廃棄しようと思う。)

以前に書いたとおり、3年ぶりの関東圏への旅だったが、
この3年の間に大きく変わったのは、こちらの武器。GPS付き携帯ってやつが、映画限定のジャイアンのように、こんな素晴らしい仲間だったのか、と実感させられた。
機械音痴のオジサンでもこうなのだから、もう世の中では、ガイドブックや地図の概念が大きく変わっているんだろう。
(もっとも、それを使っていたのは、私ではなく友人Yである。サンキューです)

2日目、足裏の水ぶくれを気にしながら廻った先は、
これまでの思い入れや経過をたどれば、バレバレであろうが、
たとえば
F-1ファンならば鈴鹿サーキット、
さすがキャプテン!貫禄です
笑点又はボクシングファンならば後楽園ホール、
歌舞伎ファンならば歌舞伎座(そうなのか?)、
という聖地があるように、

桑田氏を観るために上京したとなれば
ファンの聖地である、江ノ電、エボシ岩、茅ヶ崎などを含んだいわゆる「湘南」ということになる。

小雨がそぼ降る午前の早い時間に都内から行動を開始し、
はじめて茅ヶ崎駅に降り立ち、あこがれの街をトコトコ歩き回った。

駅から海に向かって歩き出すと、そこはいきなり「雄三通り」。
キャプテン加山氏なのか?これは大変なことになった、とテンションがあがる。

出会いから20数年。悲願達成!
偶然にも地域のお祭りであったらしく、飾り付けの準備にいそしむ住民の方々の姿が見られた。
道路が狭く、歩道もないが、スルスルと車がいきかい、当たり前の日常の暮らしがあることを感じる。一見の者がズカズカ土足で踏み込んじゃイカンぞ、という気になる。

茅ヶ崎でどうしても見たかったのは、3つあった。
1つ目は、ラチエン通り。サザン初期の名曲「ラチエン通りのシスター」に由来する。あんな美しい曲のモチーフが見たいと思うのは、仕方ないだろう。(あまたの同好の友から「そうだ!そうだ!」の声が聞こえる、ような気がする。)

2つ目は、ラチエン通りを海に向かって歩くと見えるとされる「エボシ岩」。(説明不要でしょ?)

3つ目は、明日以降にとっておこう。実は桑田氏関連ではないのだ。

とにかく、昼から酒を飲めたりする1点をとっても、気ままな旅はホントありがたい。

2012年7月9日月曜日

私的な上京物語1

いきなり東京タワーが出迎えてくれた
うまくいくか不安だが、 携帯から、初めて書き込んでみる。

前回ブログで書いたとおり、 実はまだ、東京周辺に滞在しているのだが、この週末は濃密な時間を過ごさせてもらった。

急にイナカから上京した理由は、 ズバリ、桑田氏のお台場限定ライブに当選したから。
都内の交通事情に不案内で、多少行きつ戻りつウロウロしてまったが、存外スムーズに移動完了。 会場入口での長々と果てることない行列と、天気予報どおりの大雨には、いささか閉口したが、 全てひっくるめて、忘れられない体験となった。

会場内は撮影禁止です
どの神様仏様に手を合わせればよいかわからぬが、急な僥倖に感謝したい。
ライブの模様は、七月十一日フジテレビで放送されるそうだ。

今後、私のきわめて瑣末な上京物語を何回かにわけて書いていきます。 携帯からは、私の技量では、うまく貼れないなぁ。

2012年7月6日金曜日

週末の予定

7月2日(月)付けの本ブログで、今週末、東京方面へ行く、ということを書いた。

急に決まった日程だから、チケットの手配など諸々の手続きがなかなか大変で、結局私には余してしまい、だらしない話だが、その辺の調整をいつものごとく、旅仲間の友人Y氏に委任した。

宿泊先の変更等、よりよい環境を求めていくつかの曲折はあったが、この方面に秀でた嗅覚をもつY氏の力によって、昨日、なんとか万事整った。
上司の許可も出て、月曜の仕事はクローズにし、明日7日から2泊3日、典型的な「おのぼりさん」と化す。

北のマチに住む私にとっては、(この地域でも最近ではめっきり使わなくなった言葉だが)いわゆる「内地に行く」という機会がそんな頻繁にあることではなく、羽田乗り継ぎのステイを除き、純粋に東京方面に赴くのは、実に3年ぶりのことである。地下鉄なんかをうまく乗り継げるか、一抹の不安はぬぐいきれない。

東京、といえば、ちまたの噂では、スカイツリー方面に人気が集中しているらしいが、今回のおのぼり旅では、そこには行かない予定である。そうなると厳密には、おのぼり旅とはいえないかもしれないが、高さが634メートルもあるんだから、どっからでも見えるんでしょ?って感覚だ。正直、高いところも得意じゃない。

鎌倉にも行くのか?
数月前、某公共放送のスカイツリー特番で、矢沢永吉氏がスカイツリーにてキレのあるパフォーマンスを披露していたが、その模様を観ていて、急に思ったことがある。矢沢氏も桑田氏も「東京」という曲を作っているのだが、どうしていずれの曲も、悲しい曲調なんだろうか、ということだ。大御所には共通のアンテナが装着されているのだろうか。東京って悲しいのか?

週末の天気予報を見ると、東京は雨降り、らしいな。
とりあえず、行ってきます。

2012年7月4日水曜日

匿名の私

落語に興味があって、気になる噺家が北のマチにやってくるたび、都合をつけて駆けつける。
そういう生活が10年くらい続いている。

初めて観たのは、圓歌師匠。
十八番の「中沢家の人々」でホール生落語(明らかな造語だね)の筆おろしをさせていただいた。

このネタをとっかかりにナマの世界に足を踏み入れたとなると、
孵ったばかりの雛鳥が初めて見たものを親だと思う定理に当てはめれば、
自ずと向かう先は、創作落語の爆笑系、ということになる。
ただ、現実には、こっち系を標榜する演者自体が少ない。

そんなわけで、こっち系(どっちだ?)が好きであることを前提としながらも、
代替的にやむを得ず、少しずつ古典フィールドにも広がっていき、
そしてあるときから、そっち(だからどっちだ?)が本流なのだ、とも自分なりに理解したのだが、

そういうジャンル分けがそもそも無意味であって、
圧倒的な格として無視できない存在、ドンがいることに早い段階で気づいていた。

いわずと知れた、現代の大看板、立川談志家元である。

しかし、タメることなくサラッと書くと、
私にはまだ早いか?という敷居の高さが災いし、家元との邂逅は叶わなかった。
意を決してチケットを購入したとき、私に肩透かしをくらわして、家元は逝ってしまわれたのだ。

(いま思えば、圓歌師匠を観ておきながら、談志家元の敷居が高いと考えた理由は、なんだったのだろう?)

出典がうまく引けないのが申し訳ないが、
家元は生前に
「芸人は、基本的に自分のことを語りたいものだ」という趣旨のことをいわれている。




私は芸人ではないけれど、ブログをやり始めて、家元と同じことを考えた。
ただ、私がねじれているところは、匿名性を守りながら、自分のことを語りたくなっていることである。

困ったもんだ。









2012年7月3日火曜日

しっくりこないが、徐々に。

4年も寝かせていた、このブログ。
急に思い立って、長く寝かせた割には相当な見切り発車で、日をあけず3回投稿したが、正直なところ、使い方がよくわかっていない。

ブロガーの先輩方(言い方あってる?)には、おわかりいただけると思うが、
そもそも文章を書く以前に、レイアウトなんかを決めるために、自分で選ばなきゃいけない各種の設定がある。

これが、機械音痴にとっては、「入り鉄砲と出オンナ」のような関所であり、頭に??を散りばめながら、オッカナビックリいろいろ試しているのだが、未だにシックリこない。

どうやら機能がいっぱいついているらしいので、
私的ブッチギリ第1位の某店ラーメン
使いこなせば、より独自色が出せるのだろうし、それらの設定に満足すれば、あとはスイスイと行けるんだろう。

着せ替え人形のような楽しさがあり、どうせ選ぶだけなんだから、随時チャカチャカやればいいんだが、

解説を読もうとすると、全編英語だったり、動画を見ようとすると、これまた英語でさわやかに話しているお姉さんに出くわしたりする。日本語プリーズ。

収益、なんて言葉もある。そのたび、手が止まる。
まあ、徐々に手を加えていきます。

昨日はようやく、プロフィール欄に手を加えた。
みそラーメン好きであることをカミングアウト。日々、中性脂肪との闘いだ。



2012年7月2日月曜日

その2はなかなか出てこない

前回、
6月29日早朝に更新したブログタイトルに、カッコ書きで(その1)なんて付けたから、
次回の投稿は、何の義務もないが当然(その2)をそれらしくツラツラと、なんて思っていたのだが、6月29日午後、そのプランを軽々と一蹴する私事都合が発生した。

ちなみに(その2)を書こうと思っていた時点では、
桑田佳祐氏への憧憬、初ライブに参加した17歳の感慨から現在に至るまでを、
みっちりと濃厚に気持悪いほど、場合によっては、その3、その4以降まであるか、と何となく考えていた。(今後、日の目をみることはあるのだろうか?)

ところが、である。

例えるならば、
美人ホステスを時効寸前に捕まえた刑事の執念、
長州力を付け狙った雪の中島体育センター別館のテロリスト藤原組長、
当たってもいないのにデッドボールを主張する広島の達川(ちょっと違うな)
とでもいうのか、よくわからんが、とにかくそっち系のこぼれおちるような執念のおかげなのか、
急な僥倖が降ってきた。

まさに僥倖である。
こういう場所で文章を掲示する場合の常識とか、マナーとかがよくわからないし、
そんな状態だから、なおのこと差しさわりがあってはいけないので、詳細は書かないが、
 
温泉タマゴのネーミングは秀逸だ

その僥倖に導かれて、今週末、私は遠路はるばる、東京あたりに行く。
土地勘もないが、とりあえず行ってみる。

週末は、その勢いで居酒屋にて暴飲暴食。つくね温玉が美味しかったです。