1995年7月8日
札幌競馬場にいた。
当時、私は社会に出て間もない若造で、
呆けた学生時代の名残りから、札幌競馬の開催日には桑園(競馬場)へ出張る生活を続けていた。赤木駿介氏と山口瞳氏の共著「日本競馬論序説」をバイブルに、来る日も来る日も飽きずにパドックで馬を見ていた。いま思い返すと、金はなかったけど(今もないけど)楽しい時代だった。
エアグルーヴ。
この日が彼女のデビュー戦だった。
もう18年も前になるが、パドックで彼女を見て、ため息が出たことを覚えている。
なぜ、ため息?
違ったのだ。
全部が。
全部が、ほかの馬と明らかに違ったのだ。
とにかく
私のつたない語彙では伝えようもないが、ぜーんぶが違った。この時点で彼女が日本競馬史に彩りをそえる逸材であることは、ゴンタクレの若造にも一目でわかるほど、別次元の馬だった(そう思って当時見ていたのだから、この若造も相当その気だったのだろう。恥ずかしい限りだね、まったく)。
しかし、レースというものは、
様々な要素が絡んで結果がもたらされるものであり、別次元であるはずの彼女は、デビュー戦を2着に取りこぼした。鞍上は武豊。いま調べると勝ち馬の鞍上は安田富男。「泥棒ジョッキー」の富男氏だ。馬券は当たった(今のように馬単が発売されていたら外れていただろう)が、グルーヴよ、君はこんなもんか?と首をひねった。そして3週後、2戦目で彼女はきっちりと勝ち上がる(そのときの2着馬はダイワテキサス(2000年有馬記念3着馬)だったらしい。見ていたが、こちらは記憶にない)。
そして、彼女は若造の目利きに応え?競馬史上に残る名牝として君臨することになる。
彼女が天皇賞秋を勝ったとき(このレースが彼女のベストレースだろう)、私は財布を丸投げするほど単勝を打って、束の間潤い、ピルサドスキーの2着に敗れたジャパンカップでは東京競馬場まで出向いてスッカラカンになり、ぺリエに乗り変わった有馬記念でも更に追徴没収の憂き目を味わった。それでも悔いなどなかった。彼女は特別だった。
全成績19戦9勝、2着5回、3着2回
(うち私が生で見たレース5戦3勝2着2回)
こんな好成績の馬を相手に馬券はおそらくマイナス。私は馬券が下手だなあ、としみじみ思う。
個人的な経験として、新馬戦のパドックを生で見て、その後GⅠを勝つ活躍をした馬は、彼女が最初であった。その後もタニノギムレット、ジャングルポケット、メジロブライトなどを見ているはずだが、正直、ジャンポケ以外は記憶にない。こんな名馬たちを向こうに回しても、彼女は今もって、ず抜けている。
彼女は、4月23日、天寿を全うした。
出産後、急に体調を崩したらしい。
しかし彼女が遺した11頭の子どもたちには、日本競馬最良の血が流れている。
悲しいけど、もっと、前を向こうじゃないの。
エアグルーヴさようなら。
君の残した血脈は、
このさき最高の花を咲かせるはずだよ。
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