2014年4月29日火曜日

ルーツを旅する(1)

4月26日から本日29日まで、仕事が4連休だった。
前回記したとおり
この日程にぶつけ、26、27日に道東のマチを旅してきた。
 
このマチは、私が小三から中一までを過ごしたマチで、
以来、公私とも何度かは訪れてはいるが、上っツラだけの滞在であった。
とにかく、少年期の俺を形成してくれた大切なマチだ。
 
今回は特に、
「公」の部分は一切なく、純粋に「私」のみ。まじりっけなしのプライベート。
大袈裟に言えば、個人的なルーツをたどるというか、
来し方を振り返るというか、何かそんな感じの旅なのだ。
今クタクタになっている俺を変えてくれる可能性のある旅でもある。

大きくテーマは2つ。
1つは母校を訪ねること。
1つは旧友M君に逢うこと。
人によっては、何だそんなことかよ?と思うかもしれないが、
私には、いずれも30年ぶりの出来事なのだ。

仮に30年モノといえば、
サントリー響で言えば最高級品が700mlで10万円、
マッカランなら12万円。
貴重であって、お高いのだ。

また、今から30年前といえば1984年だが、
グリコの社長が誘拐された、
8時だョ全員集合が生放送中に停電した、
ロス五輪が開催された等の年であったそうだ(なんとなく今調べた。特に深い意味はない)。
柔道山下選手の決勝の相手は、フェアプレーに徹したエジプトのラシュワン選手だった(これも特に深い意味はない)。

自宅近くのジャンクションから高速に乗り、2時間半でマチに到着。
意外に早いもんだ。けど、頻繁に通いつめる距離ではないよな。
まずは、開店間際の某有名ジンギスカン店で昼食をとる。美味い。時間が余ったので、クルマで若干の観光をし、そのまま母校に足を向けることにする。

母校には3日ほど前、
あらかじめ電話して、先生方を煩わせてしまったが、
当日も快く対応いただき(教頭先生だった)、卒業以来はじめて学び舎に足を踏み入れることになった。大変申し訳ない。
 
校舎の外壁は何度か塗りなおしたそうだが、
こげ茶色の屋根とクリーム色の外壁は思い出のままの色であった。

ついに学び舎に入る。
当時ピカピカだった校舎(私が転入してきたときに新築2年目だった)は、
大ベテランの風格が滲み出ていた(築30年以上になっているのだから、当たり前か)。
しかし基本的な構造は何も変わっていない(これも当たり前か)。
 
校舎の中には、子供の頃に感じた空気が、今も流れていた。
ひんやりしてるけど穏やかな空気。
呼吸をしていると、目の前の情景に溶け込むような感覚になる。
 ・・なつかしい。
 
2階へ向かう階段を上がりきると、
正面にコの字型の水飲み場が見えて、
右側が男子トイレ。
この光景は、私が酒を飲みすぎて、
ムカムカしながら浅い夢を見るとき、今でも思い浮かべる水飲み場とトイレである。

放送室の手前の、ちょっとした資料室には、
歴代の卒業アルバムが保存されていた。幾冊か探すと、生意気な顔をした当時の私が、クラスメイトと共に写っていた。教頭先生によると、卒業生の大半は、私のように消息不明だが、例えば私と同じクラスだったAさんは、今も学校の近くに居住しており、現在では彼女の子供が通学しているそうだ。PTA活動に熱心に励まれているという。
 
それを聞き「おいA、久しぶり!」と言ってみたい感傷におそわれるが、そんなことすれば俺捕まるよなあ。けど、どこかで脳内のスイッチが入ったのか、卒業アルバムの顔を見るだけで、クラスの半数以上の名前が浮かんできた。私にはこういうことがよくあるようだ。特殊なスイッチがついているのか。ところで、みんな、今はどこで何をしているのだろう?クラス会、呼んでくれよな。
 
また、私らのクラス担任だったB先生の消息は不明だが(現役時代から相当気合の入ったアル中だった)、同じ学年の他クラス担任だったC先生は数年前にこの学校の校長として定年を迎え、同じくD先生は今も隣の学校の校長なのだという。E先生は早逝され、当時奉職されたばかりのF先生は教頭として管内でご活躍だそうだ。
 
以下、気が向けば次回に。

2014年4月23日水曜日

クタクタなのだ

なんだか、
とてもクタクタなのである。
 
良いのか悪いのか判別すらつかないけれど、
急に、人生の歯車が回り始めているのである。

人生って、自分が主役のはずなのに、
不思議と自分ではいかんともしがたい局面に出くわすものだ。
コノヤロー、ふざけんな、と思いながら、じっと我慢する。
そうして、じっくり考えて、身を任すほかない。
 
いずれ、ここで詳細を記すような日が来るのであろうか?
ないかもしれない。いや、たぶんないだろう。
とにかく今は、まったくの暗中模索なのだ。

どうするんだ俺?

別の話を書く。
今週末に、昔住んでいたマチを旅してくる。
もしかしたら、次回以降、書き連ねるかもしれない。

けど、仕事をしながらも、そしてこうやって帰宅してからも、クタクタの原因が頭から離れない。
どうするんだ、俺?

2014年4月17日木曜日

1ヶ月 こんな本を読んでいた。

このブログは、
私のメモ書きみたいな側面があることは、かねてより記してきたとおりだが、
今回は書き出す前から明らかにそれオンリーになるのは明らかなので、あらかじめ興味のない方はスルーしてください。

大学の頃の話。

「いったい俺は、どんなジャンルの本をどれくらい読んでいるのだろう?」
今よりもっとバカだった当時の私は、ふとそんなことに疑問に感じ、
小説、エッセイ、評論本などを読了するたび、正の字を書いて、タイトルなんかのメモをつけていた時期がある。

しかしそのうち、ルールが甘くなり、
記録者であり解答者である私に、不正の概念というか、正の字カウントアップ至上主義みたいな機運が現れはじめ、正の字を書き足すために読む、みたいな本末転倒な現象や、週刊ビッグコミックスピリッツなどの漫画本までも算入しはじめて、迷走した。結局、記した正の字が膨大になっても、一向にお利口にならず、まったくバカのままだったので、いかりや氏ばりにだめだこりゃ、となり、メモをつけるのは1年半くらいでやめてしまった。

それでも怪我の功名というか、そのときわかったのは、
俺は小説より、ノンフィクション、ルポ、エッセイみたいなジャンルが好きなのだ、ということだった。きっと純文学を読む体力も頭脳も気概もなかったのだろう。それは今も同じだ。当時、読書メモを上手く整理できる能力があったのなら、いまごろ立花隆みたいな知の巨人なれたのになぁと思う。残念なことをした(無理です)。

で、今回ジャスト1ヶ月、
モノは試しで久しぶりに読了した本をメモしてみました。入手先は近くの大型書店となじみの古本屋という、いつもの日常ルーティーン。不正計上一切なし。自分では意外な感じのラインナップとなった。

許す力(伊集院静)
藤子・F・不二雄の発想術(ドラえもんルーム編)
私が会った日本の黒幕・首領 (大下英治)
田中角栄に今の日本を任せたい(大下英治)
小泉純一郎の軍師 飯島勲(大下英治)
井深大 自由闊達にして愉快なる(井深大)
大安吉日(源氏鶏太)
喋々喃々(小川糸)  
笑う警官(佐々木譲)
サンマの丸かじり(東海林さだお)
フェルマーの最終定理(サイモン・シン)
僕の死に方 エンディングダイアリー500日(文庫版)(金子哲雄)
金子哲雄の妻の生き方 夫を看取った500日(金子稚子)

本棚を覗かれるのは裸を見られるよりつらい、ということをいった先人がいる(はずだ)が、私もそんな感じ。人格とか性格とか、何となくわかっちゃうよなあ。なので、こういうサラシは今回限りにしよう(というか、メモしない)。ちなみに大下英治氏に偏っているのは、俺の中に起きた急な大下ブームのせい。金子哲雄氏の著作は、ようやく文庫になり満を持して購入した。http://smilebabyohbaby.blogspot.jp/2013/01/blog-post.html

それにしても、
いろんな季節をくぐりぬけ、今の私の読書嗜好はこんな風なのか、とわかったのは意味があるような気がする。ただ、勉強っていうより、完全に娯楽シフトのチョイスだな。
 
見栄も張らずこのまま。
事実だから仕方ない。

2014年4月14日月曜日

ラーメン・ラブ(贔屓店の新装開店)

読者の皆さんは、またかよ?と思われるだろう。
何度も書いてきたが、そしてまた書くが、ラーメンが好きなのである。

このたび、私が世界で一番美味いと思っているラーメン店が、
場所も新たに(といっても旧店舗の隣地なのだが)リニューアルオープンした。

わかる人にはわかっちゃうだろうけど、
迷惑かけちゃいけないから、今回もバレバレであろうと、岩窟王のごとく店名は伏す。

3月中旬、最後に旧店舗に伺った際、
おかみさんから、
4月の正式オープンの前日午後にプレオープンするから、もしよかったら、とお誘いを受けた。

誰彼かまわず話している様子ではなかったから、
店の関係者か、余程の中毒患者にだけコッソリ教えていたものと思われる。
連日大行列の店である。顔なんか覚えちゃいないだろう、と思いきや、私のルックスが相当に特徴的だからなのか、とにかくお声をかけていただいた。

光栄である。
この上なく光栄である。

どこぞの始球式や、どこぞの栄誉賞や、どこぞの神社をドタドタ走る一番福より、私には断然価値がある(書いていて自分でもよくわからん)。

逆上気味ではあるが、そんな経過もあり、招待客(になるのか?)として、
晴れやかな思いをかかえ、満を持してオープン前日、万難を排し指定された時刻に新店舗に伺った。

行ってみると、旧店舗はすっかり解体され、駐車場のアスファルトも剥がされ、30メートルほど横にズレた場所に、こじんまりとした新しい店が建っていた。すごい変わりようだ。

店には、プレオープンだからか、暖簾は出ていない。
しかし周辺に車は多数停まっている。花の飾りつけも急ピッチのようだ。ここで新しくはじまる、っていう新鮮な空気感が嬉しい。

私も、生意気にも祝花なんかを差し上げて、ゆっくり店内に入る。にこやかにおかみさんと女性スタッフが迎えてくれる。素人目には、動線こそ違うが、席数や壁紙の様子、待合フロアなんかのテイストは、ほぼ以前と一緒に見える。

人気店でも席を増やさず、決まったルーティーンでラーメンを作り続ける、という店主の強い意思を感じる。聞けば、ガス器具やしつらえ品なんかも、できるだけ以前のものをそのまま使っているのだそうだ。浮かれていない感じがこれまた嬉しい。これだもの、やっぱり信用できるよなぁ、と思う。

出てきたラーメンは、変わらずに美味かった。
変わったところといえば、期間限定メニューだった某ラーメンがレギュラーメニューとなったことと、ライスに大中小の軽重がついたこと、それと消費税のせいか若干値上がりしたことか。

誰に言うでもないが、
その席に一番最初に座ってラーメン食べたのは私です、という事実が、今後のひそかな自慢になりそうだ(どの席かは、この場でも申しません)。

翌日は大変な風雨だったが、正規のオープン日。
行列に並んで再食した。
今日も来たのか連日かよ!と私の祝花もどこか恥ずかしそうだった。

ラーメン最高!

2014年4月11日金曜日

バカにつける薬

物騒な事件が続いている。
 
どこかのバカが、カセットボンベを破裂?させる新技を覚えたらしく、
今年に入って札幌市内で5件もドカンドカンやらかしている。
 
しかも、そのうち2件は警察の施設内で起こっているとのこと。
警察にすれば、
お膝元がやられるっていうのは、相当な屈辱だろうし、上のほうの人はカンカンだろう。
 
今日現在、
バカはまだ捕まっていない。おまわりさんかデカか知らないけど、早くバカを捕まえてくださいね。なお、北警察署のホームページによれば、概要は次のとおり。
 
1件目 北警察署駐車場激発物破裂事件
27 午前35分ころ 
北区北24条西丁目 北警察署駐車場内
 
2件目 MEGAドンキホーテ新川店における放火事件
20日 午後20分ころ
北区新川丁目 MEGAドンキホーテ新川店階靴売り場
 
3件目 イトーヨーカドー屯田店立体駐車場における激発物破裂事件
18日 午後30分ころ
北区屯田丁目 イトーヨーカドー屯田店立体駐車場
 
4件目 ジョイフルエーケー屯田店男子トイレにおける放火事件
27日 午後時ころ
北区屯田丁目 ジョイフルエーケー屯田店ペット・園芸館男子トイレ内
 
5件目 警察公宅に対する放火事件
日 午後1140分ころ
北区北25条西丁目 警察公宅玄関内
 
よくもまあ、こんなにバカスカやるもんだ。
しかも、4件目あたりから、バカはさらに調子こいて、釘やら画鋲やらを混ぜ込み、爆発の凶暴度?を増しているらしいではないか。犯行スパンも短くなってるし。1件目あたりの温度ならば、チョットしたオイタくらいで済んでた話なのに、ここまで来ちゃうと、もう洒落では済まされない。
 
ただ、もうやめなさい、ってこんなブログでいったところで、見ることもないだろうし、
相手はバカなのだから、万が一、見てもやめないだろう。バカなんだから、仕方ない。
 
また、地域周辺を知っている人ならば(私もそうですが)、
それぞれの事故現場が車で15分もあれば行き着けるほどの場所にあることは承知しているし、この流れなら、次はどこ?っていう不謹慎な予測も立つところである。無責任な私がそう考えるくらいだから、そこの直接の施設担当の方々は相当ピリピリしていることだろう。ご心労お察しします。
 
それにしても、
なぜここまでしてるのに、バカは捕まらないのだろう?警察もちょっと油断していたのか?報道によると、バカなりに考えた犯行声明文が、警察やら北海道新聞やらに送りつけられていた、というではないか。警察だってこれくらいやられたら、バカの特定は済んでいるんだろう、と思いたい。
 
どんな理由か知らんけど、俺はバカの肩を持つ気は1ミリもない。
バカよ、おやめなさい。バーカ!

2014年4月9日水曜日

ジャンボさん亡くなる

訃報である。

以下転載 
--HBCの番組で活躍 ジャンボ秀克さん急逝
 HBCのテレビやラジオ番組で活躍したフリーアナウンサーのジャンボ秀克さんが、札幌市南区で散歩中に倒れ死亡しました。62歳でした。ジャンボ秀克さん、本名・佐々木秀克さんは、8日昼前、札幌市南区常盤3条2丁目の路上で、近くに住む女性が仰向けに倒れているのを見つけ消防に通報しました。ジャンボさんは、ドクターヘリで病院に運ばれましたが、間もなく死亡が確認されました。ジャンボ秀克さんは、1973年からHBCのラジオパーソナリティとして活躍。特に、「ベスト100マラソンランキング」では、毎晩、100曲のランキングを一気に読み上げるディスクジョッキーとして全国に名を轟かせました。ジャンボさんは、最近もテレビCMなどで活躍していましたが、8日、散歩に出た後、路上に倒れていたということです。
(以上 氏に一番ゆかりのある放送局HBCホームページのニュース欄より)

HBCホームページに載っている以上、事実なのだろう。ジャンボさんが亡くなった。にわかには信じがたい。他のソースから補足すると、死因は急性心臓死とのこと。聞きなれない言葉だが、いわゆる狭心症や心筋梗塞、重篤な不整脈による突然死を指すらしい。通行人が倒れる瞬間を目撃していたのだという。

ジャンボ●●、といえば、全国的には
ジャンボ尾崎、
ジャンボ鶴田の両氏が飛びぬけた知名度だろうが、
道民ならば、真っ先にジャンボ秀克氏を思い出す方も多いはずだ。
 
一言であらわすと「元気で明るい声」の人だった。
私が最後に氏の声を聞いたのは、ひと月ほど前だった。
ラジオ生番組の中古車フェア会場からの中継だったと思う。いつもどおり適当にいい加減で、キャラの立つ天真爛漫な大ベテラン、といった風情の放送だった。

また、ジャンボ氏は、
地元スーパーのテレビCMにも長きにわたり出演していた。道民なら知ってるでしょ?

やらされてる感満載のそのCMは、
ローカルならではの味わいで、ユルさがこの上なく際立っていた。
数年前、そのCMは、テイストはそのままに新しくなり、
それを見るにつけ「ジャンボさん、なんかガオッてるか?」(方言かもしれないが、ニュアンスで捉えてください)とは思っていた。突然死に至るような何かの病を抱えていたのだろうか?

そこにいて当たり前、いつも聴こえる声の人がいなくなる、というのは切ないものだ。
記憶では、くだんの「ベスト100マラソンランキング」は、夜7時くらいからの放送だったと思う。夜7時の子供たちは、テレビにイカれていたから、この番組を欠かさずに聴いていたような覚えはない。しかし、体調を崩してテレビを見られないようなときに、布団で横になりひっそり聞いていた記憶が残る。

それより個人的に、ジャンボ氏の番組で一番印象に残っているのは、
「あー!よいしょー!」との掛け声で始まる番組だ。豪快な明るい番組だった。ドン川上氏らも出てたっけ。
 
ほど、当ブログのカウンターを確認したら、
過去に記したミスターデーブマン氏の追悼記事が今日だけでびっくりするほどの訪問数になっていた。きっと、同じカテゴリーと思しきジャンボ氏の訃報を受け、こちらにお訪ねいただいたのだろう。

今回は、
そんな同好の方々の気がかりに対して、ちょっとした義務的な気持ちになって、あわてて更新した次第だ。なお、記憶違いなどに関してはご容赦願いたい。
HBCでいえば、
中野トム氏らフリーのラジオパーソナリティ諸兄には、しっかりとジャンボ氏の志を継ぐことを期待している。

ジャンボさんのご冥福をお祈りします。

2014年4月8日火曜日

新年度

いつの間にか新年度になっていた。
 
勤務先では、悲喜交々の人事異動があったのだが、
こと私に限っては、動かざること山の如し。

俺、ホントに山か?
ってくらい不動。俺の周辺は、現役時代の貴ノ浪くらい、やたら変化したが、こっちは動かぬ山。

そんなわけで、
今日も変わらずに仕事をしてきたが、上司、部下、同僚の大半が異動となり、ポツネンとした気分は否めない。

我らのスタッフは、異動のなかった俺ら数名と、
私との年齢がダブルスコアにもなろうという新人、
数年ぶりに復帰する産休明けの職員などが加わり、
なにかフワフワした状態が続いている。
そこに新人を教育したがっている2年目の準新人がいて、お隣のセクションからやってきた準新人のお目付け役がいる。互いの距離感が全くつかめず、今はさながら異種格闘技戦のようである。

チームとしての仕事が軌道に乗るまでには、幾つも山坂はありそうだが、
結局、山(私のことです)が、最後に火を消しゃいいんでしょ、と割り切っている。
 
そうである以上、
最近ヘロヘロ状態の武田久氏のようにならないよう自戒している。
また、スタッフ全体がどう変化していくか、結構楽しみであったりもしている。特に若いやつらは、若さをいかして、遠慮せず好きにやればいい。

俺が山であること(異動の内示)が明らかになったのが、3~4週ほど前だったろうか?
それ以降、私のポツネン気分を紛らわせてくれたのは、
「オボカタさん」、「サムラゴーチさん」といった、くくっちゃ悪いが、トリックスター扱いの人々と、
「みんなの党」の8億円熊手おじさんだった(それにしても昨日の会見でのヨシミ氏、言葉は先走っていたし、なにより目が泳いでたなぁ。ありゃ、かぎりなくクロでっせ)。

しかし、そういう会見を見ている俺が言うのも矛盾してるんだが、
最近、「説明責任があるじゃないか」とか
「説明責任を果たせ」なんていうことを
耳にすることが多くなったと感じているんだが、それってどうなんだ?

なんで貴様らにそんなこと説明しなきゃいけないんだ?
っていう理不尽な追及もあるって。
 
変にとられるとかなわないが、
結局、私ら庶民の大半は、この類の追及劇を
「何の権限もないけど、画面の向こう側で脚光を浴びた人の転落が見たい」ってくらいの
下衆な感覚でしか捉えていない。

どうせ、暇つぶしなのである。
怒りの発露だって歪んでる。
 
何が書きたいんだろう?俺。

2014年4月7日月曜日

祖母の葬儀に参列した

更新が空き、もうだいぶん前のような気もするが、
前回に書き記したとおり、ビーチボーイズのライブ当日の朝、母方の祖母が亡くなった。

時間は空いたが、
これは個人的に書き留めておかなければならないだろう。

ビーチボーイズライブ翌日の早朝、
三時間ほど高速に乗り、祖母のもとに向かった。

亡骸に面会し、映画「おくりびと」のような光景を目の当たりにした。
100歳を超える祖母は、数年前から伏せった状態で、いつお迎えがきても不思議ではなかったのだが、最期は苦しまず眠るように逝ったのだという。

思い出すのは、優しい眼差し。本当にいつも私に優しかった。
俺が言う話ではないが、無償の愛とは、きっとこういうものだと思う。

通夜の席、参列者にお帰りいただいたあと、
飽きずに祖母の顔を見ていたら、知らないうちに伯父がそばに来ていて、思い出をポツポツ話してくれた。普通であれば、いい情景なのだろうが、このオジサンは耳が遠くて、話す声もやたらデカく、ポツポツ話した割には、内容は周囲にダダ漏れだった。誠にいい話だったのだが「声デカイって!」という印象ばかりなのは、いまもって残念である。こういうオジサンって、どこの家系でも、必ずいるもんなんだろ?

また、その場では、
もう30年以上ぶりになるであろう、従兄弟たち数名とも再会した。

遠方に住んでいると、従兄弟なんていうものは、
もともと親に連れられて盆暮れに顔を合わすくらいしか親交がないものだし、
それが30年以上も逢っていないとなると、今さら特段の思い出話があるわけもないのだから、間が持たず、やたらと酒をガブガブ飲んでしまった。

それが嫌なわけではなく、むしろ連帯感がハンパなかった。
これが親族というものなのだろう。

「今宵は祖母が引き合わせてくれたんだよな」
なんてありがちなこと言って、ガブガブ飲む。

ウンウンうなずきあって、注ぎあう。
うまいこと言って、また飲む。で、また注ぐ。

こっちも向こうも、イイトシした社会人である。互いに敵意なく、間を埋める最善手は、ガブ飲みエンドレス方式だ、と暗黙のうちに理解した。腰を据えて飲むしかない。

そのうち興に乗ってきて、
実子チーム4名(私のオジオバたちですな)、孫チーム7名(私らです)の2卓にわかれ、
連れ合いやひ孫たちは適宜どっちか吸収され、普通の飲み会に発展。

「こんなに和気藹々やってるとバアサンも喜んでるだろ」
などと更にありがちなことを言って、酒が加速する。

従兄弟には悪い奴もいて(主に私なんですが)、
「なーにが和気藹々だ!」と、

一族で絶対にタブー視されている20年来絶縁状態の伯父一家(むろんこの日も来ていない)の話を別卓に聞こえるように振りはじめる。酒が入っているから、勢いがついて、あることないこと言うわ言うわ。仮想敵がいるとハナシが盛り上がるのは、世の常だ。反省してはいるが、いたしかたないとも思う。そして酔ってはいたが、オジオバの宴卓が俺らの挑発的発言に乗ってこなかったのは、さすが立派だとも思う。

酒が強い母が、二日酔いしたほどだ。
みんな相当に飲んだのだろう。
翌日、つつがなく葬儀は終わり、私たち血族は、またそれぞれの日常に帰っていく。

ちなみに、
きっと祖母が当ててくれるに違いない、とスケベ心いっぱいに全力で買った馬券(1、2枠がらみ→白黒馬券)は、見事に外れた。最後に、人生そんなに甘くないと教えてくれたんだろう。

ばあちゃん、いままでありがとうございました。
これから、まともな大人になります。