2014年3月29日土曜日

ビーチボーイズを観た

25日、念願だったビーチボーイズのライブを観た。
たぶん、これが北海道では最初で最後の公演だろう。
ブライアンこそいないが、それでも、ビーチボーイズなのである。

それにしても、更新までにやや時間が空いたが、それはのちに触れることになるはず。
ならなかったら、スマン。聞き流してね。

いやー、ベテランの貫禄というか、円熟した素晴らしいライブだった。

オリジナルメンバーのマイク・ラブ、古参ブルース・ジョンストン、二人のレジェンドに率いられた現在のビーチボーイズ。コーラスワーク、メロディの美しさ、ヒット曲の乱れ打ちである。これに天才ブライアンが帯同していたら、私は失神していただろう(ウソです)。

でもやはり、
ブライアンウィルソンは、正直見たかった。

最前列では、踊っている人が多数。
あれだけ、たたみかけられたら、踊るわな。
私は二階の後方だったので、羨ましかった。

「サーフシティ」という曲は、
ジャン&ディーン名義だと思っていたが、今回これを演ってくれた。
私にとっては嬉しい誤算。シンプルで勢いがあって大好きな曲だ。
脳内に水着のネーちゃんが走る走る。

また「ココモ」は、
ビーチボーイズ名義であってもブライアンが関わっていない時期の曲であり、若干雰囲気が違うが、そんなことはどうでもよくて、やはり良い曲だと再確認できた。トムクルーズ氏主演の映画「カクテル」の主題歌といえばおわかりか。すごいぜビーチボーイズ!

前段に触れた、
更新が遅くなった件も、やはり書き留めておく。
実は、ライブ当日の早朝、私の祖母が亡くなった。100歳を超える大往生だった。
無事、一連の葬儀日程を終え、昨日帰宅した。今も妙な精神状態であることは否めない。

友引だの大安だの、そういった習慣はよくわからんが、
暦上、葬式で禁忌とされる日がうまく避けられて、ライブチケットを無駄にすることはなかった。
きっと、俺を愛してくれた祖母の最後の贈り物だったのだろう。

ライブで
「ゴッドオンリーノウズ」(邦題 神のみぞ知る)のイントロが流れ始めたとき、

俺は、何故か不意に「ばあちゃん、これでさよならなんだな」と感じた。
いつも聴く以上に、神々しい、心が洗われるような、イントロだった。
ニトリ文化ホールの天井を見上げた。
祖母も見ていたのか?涙は出なかった。

評論家筋から、世界一美しいイントロと讃えられる「ゴッドオンリーノウズ」。
これから、この曲を聴くたびに、私は祖母を思い出すのだろう。

2014年3月25日火曜日

3月日記

前回更新から10日ばかり経ったが、こんな私でも年度末は何かと忙しいらしい(自覚はない)。
誰に見せるでもなく、この10日間を忘れぬようメモ書きとして経過を残しておく。現在集中して読んでいる作家が大下英治なので、若干ネロネロしたドキュメントタッチになるかもしれない(なるわけない)。

3月某日
勤務先の来年度予算が決まる会議が連日続く。状況によっては積算根拠だの実績数値だの、急に資料を求められたりするが、今年はゼロ。個人的に安泰な結果だった。ただ、会議場内に入りきれない場合には、別室でモニター視聴となるのだが、今年から嘱託職員となったOB1名がそこに陣取って、なぜか離れない。現役時には彼のそんな姿を一度とて見たことはなかった。ジーっと黙ったまま画面をにらむOB。暇なのか?彼は来年度も嘱託職員として勤務することが内定している。

3月某日
勤務先が指定する年に一度の人間ドック。早朝にクリニックに向かうも、すでに先客が10数名もいる。4年前からこのクリニックに変えてみたのだが、いつも混んでいる。昨年より体重が3キロ減っていた。特に節制はしていないが、なぜだろう。2年前には、この場で高校時代の同級生(女性)と偶然出会った。顔を見てすぐに気がついたが、旦那と思しき方と一緒だったので、声を掛けなかった。私の容貌は当時から相当変化しているので、向こうが私に気づくことはない。高1のとき、彼女と机が隣になったことを思い出した。ちょっと甘酸っぱい感傷。いつもどおりバリウムで苦しむ。下剤を4錠飲んだ。

3月某日
この春に引越した知人の家に伺う。まだ荷物が少なく、すっきりとした部屋。冷蔵庫も買ったばかりなので、食材の調達のため近所のスーパーへ。その近くに曜日限定で開いている肉屋さんがあり、偶然にも廉価で購入できた。ここら辺の人々よ、居心地がいいので、ちょっと昼寝してしまった。メシのご相伴にもあずかった。ゴチソーサン。

3月某日
3月いっぱいで定年となる職場の学窓の先輩の送別会へ。某ホテル中華料理のコースだった。幹事役として張り切っていた方が、身内に不幸があり急遽欠席するハプニング。出席した方々とは満遍なく話をしたが、一人だけ一言も話さなかった人がいた。学窓の人間が皆仲良しだと思ったら大間違いだ。それでも不思議なのは、この人、毎回きっちり出席するんだな。楽しいのだろうか?

3月某日
携帯の調子が芳しくなくなってきたので、思い切って替えることに。ちょうど実家の母親の携帯もそんな感じだったらしく、同時に替えることにした。なお、私はA社、母親はB社、なのでナンバーポータビリティ制度を利用して、2人してC社に鞍替え。遅まきながらiPhone5sに。もう6が出ようとする頃だが、まあいいでしょう。キャッシュバックは嬉しかったが、待ち時間を含め4時間近くかかった。ひどく疲れた。

3月某日
休日。ホッキが食べたくなり、天気もよかったので苫小牧までドライブ。そこで残念な目に。特に名前は伏せるが、某施設内に新装開店したという某すし屋?に入店したが、とてもシドイ目に。遅い、不潔、まずい、高い、この時点で4冠王。数えればまだまだあったはず。それでも平然としている板前さんを見て、逆にすごすぎて笑ってしまった。私は預言者ではないが、次に某施設に行ったときには、某すし屋は確実に消滅しているだろう。その引き立てもあり、買って帰ってきた海産物は、非常に美味かったです。

2014年3月14日金曜日

猪木議員 元気ですか御法度

こんな見方は不謹慎であろうが、
プロレス好きにはたまらない出来事が3月12日、参議院予算委員会の場であった。

主役は、アントニオ猪木氏(維新)。
話題になっているので、すでに承知している方も多いだろう。
遅ればせながら、私も参議院HPなどの動画を見たところだ。その様子を私なりの見方で書いてみる。

質問席の猪木氏は、
往年の闘魂タオル(説明はしない。わかる人だけでよい)を思わせる、赤いネクタイ姿。
かたや答弁側には、安倍首相、麻生副総理など政府首脳が並んでいる。

そこへ猪木議員、質問の冒頭、
やや前かがみになりながら、マイクに向かい絶叫調で

元気ですかっっ!! 
と不意打ちの一閃を放つ。

続いて
元気があれば何でもできる。元気があれば質問もできるということで・・・・」
という、ファンお馴染みのカマシフレーズを炸裂させる。晩年のリングで不意に見せたチョークスリーパー(猪木氏が使うと魔性のスリーパーなどど呼ばれた。明らかな反則技である)のような早業であった。

ん?なに?どうした?
という表情の安倍首相と麻生副総理。

質問内容は、
北朝鮮外交問題など極めて真面目なものであったが、
国会大丈夫か?という出オチを見舞った猪木氏。

さすが、倍賞美津子氏(元夫人)を寝取ろうとしたショーケン氏の邸宅に、バキュームカーを差し向けただけの男である(そのバキュームカーの運転手は藤波辰巳だったという噂だ。汚物を撒き散らす直前で中止したらしい)。もう、誰が相手であろうと関係ないのだ。

さらにこの先が、秀逸な展開になっていく。
猪木氏の質問に答えようと立ち上がる安倍首相を制して、予算委員会委員長の山崎力氏が、

アントニオ猪木委員に申し上げます。最初の発声は元気が出るだけでなくて、心臓に悪い方もいらっしゃると思いますので、今後お控え願いたい」
と注意を発したのだ。

確認しておくが、
この場は、日本国憲法に定められた国権の最高機関であり、唯一の立法機関である国会である。

そんな厳粛な場で山崎委員長は、
「アントニオ猪木」という、場合によっちゃ悪ふざけと思われるリングネーム(選挙に当選した際の正式な通称名であるらしい)で呼びかけ、
続けて、前代未聞の「元気ですかっっ!御法度」を出した。ニヤリとしないほうが、どうかしているよな?

それに加え、安倍総理は猪木氏への回答で
どもの頃、猪木委員とハルクホーガンの対戦に胸を熱くした」
と若干盛り気味のリップサービスでプロレス愛、プロレスラブを表明した。

総理は猪木に、
副総理はゴルゴ13に御執心の国、日本。
いいじゃないか、この余裕!

なお、ちょっとだけ検証すると、
猪木-ホーガン戦は1983年頃が最盛期(猪木舌出しKO事件)である。
安倍総理は1954年生まれなので、83年当時は29歳。
「こどもの頃に胸を熱くした」の「こども」とは、安倍さんの場合、アラサー世代を指すようだ。
これまた、いいじゃないか総理!

ちなみに翌13日の外交防衛委員会で猪木氏は、
やや控えめではあるが再度「元気ですか!」とやったという。
(昨日注意を受けた委員会とは違う委員会での発言だから、禁を破ったわけではないらしい)。

いつまでも、
燃えろ!闘魂!

2014年3月11日火曜日

縁について思う

縁とは不思議なものだ。
3月6日付けの当ブログで書いた、友人M君の話である。

書き付けた日以降、
まつわる曲折があったのだが、少ない手掛かりの中、M君に関係のある方(曖昧な書き方でスマン)に、かなり逡巡した上でコンタクトをとってみた。

そうしたら昨夜、当ブログのコメント欄にM君本人から連絡があった。
なお、当欄にいただくコメントは原則非公開にしているが、今回ばかりは、支障がないと思しき範囲で抜き出してみる。

『・・(略)●●(←註 私のことです)が北の街に転校して、夏休みに遊びに行ったこと、利尻富士が雲間から少しだけ見えたこと、うに丼がうまかったこと、迷惑も考えず、長く滞在したこと、夏なのに結構寒くてトレーナー借りたこと。おぼえてるよ!また会いたいね!・・(略)またゆっくり話そう!

無論、疑うはずもないが、
本人同士にしかわからない当時の風景をビタッと描写している。これは見紛うことなくM君からのコメントだ。

このブログは、
全面的にアナログ派の私が、適当に面白がり、かつ適当に面倒くさがりながら、誰に見せるでもなく、好き勝手にポチポチ気ままに打っている。このスタンスは、今後も変えようがないが、まもなく150回目を数えるこの時期に、文明の利器によってこんな不思議なつながり方があることを知りました。

M君、どうもありがとう。

なお、本日は、東日本大震災から3年目の3.11。
昨年、私はこんなことを書き付けている。
http://smilebabyohbaby.blogspot.jp/2013/03/blog-post_11.html

生きていればこその邂逅。
大切にしなくてはいけない。

2014年3月10日月曜日

時のうつろいを知るということの一例。

以前にも書いたが、
私は転勤族の倅のため、小中高とも入学と卒業の学校が違う
小中学校での転校はよくあることかもしれないが、高校までも入りと出が違うのは稀有だろう

昨日来、前回記したM君のことが呼び水となり、
自分が通った学校や友人の今ある姿が知りたくなった
 
なんだろうね?やはり、トシをとったのかね?
ああ、郷愁にかられる40代の俺よ

そんなわけで、カタカタと学校検索してみましたよ
そうしたら、なんだか時のうつろいを強烈に感じる結果が待っていました
(何気に一部を伏字にしてみるが、その気で調べればバレバレですな

 
入学小学校(K市立●●●小学校)
 → 平成17年3月統廃合。校舎解体済。新校名の新校舎が跡地に建っているらしい。

卒業小学校(O市立●小学校)
 → 存続。校舎も当時のまま。私が小3で転入する前年に新築され、ピカピカだった。今はどうなんだろう?

入学中学校(O市立●●中学校)
 → 平成23年3月統廃合。校舎は市の施設として転用され残っているらしいが、私の転校後に大きく増改築されたようで、私の知る校舎の大半はこの時期に解体されたらしい。

卒業中学校(W市立●●●中学校)
 → 学校自体は存続も、旧校舎は平成25年解体済。たまたま昨春に同地に赴き、偶然にも最後の勇姿を目に焼き付けてきた。今は新校舎が隣地に建っているらしい。

入学高校(道立●●高校)
 → 校名は残るも少子化に伴い、近隣の公立校と統合。私の知る旧校舎は統合前の平成3年に解体済。

卒業高校(道立●●●●高校)
 → 存続。当時ポッと出来た新設校だったから、俺の代で4期目くらいだったはず。しかし半年ほどしか通っていないので、思い出自体が当方に極薄。校内の全貌を知らないままに卒業。

 
以上、検索調査の結果、
6つの出身学校のうち3校が統廃合、そのうち2つは校名も消滅しており、私の記憶に残る校舎が姿をとどめている学校は、わずか2つだけだった

まあ、
建物自体の老朽化を考慮すれば、この結果はやんぬるかな、と理解するし、たしかに校舎が現存してもしなくても、今の私の日常には何の影響もない

ただ、
あの校舎はもう二度と見ることができない、と今更ながらに知ってしまうと、こちらの一方的なわがままであっても、やはり大変さびしいものだ(これも当たり前の感情だろう)。

このトシになってしきりに、
一度も経験のない同窓会、ってやつに行ってみたいと思う

誰か誘ってはくれないか?
ただ、そこに俺の居場所はあるのだろうか?

2014年3月6日木曜日

友人の活躍を知る

古くからの友人にM君がいる。
ずーっと没交渉であるが、私の中では今も大切な友人のままである。
知り合ったのは、十勝地方に住んでいた頃だから、もう30年も前にさかのぼる。

そういえば、今年に入ってこのブログにこんなことを書いた。
→ http://smilebabyohbaby.blogspot.jp/2014/01/blog-post_4.html
M君とは、ちょうどそこで書いたN君と同時期に知り合ったはずだ。
みんな同じモノを見て笑ったり怒ったり、同じ空気を吸った仲間だ。

それにしても、このブログを読み返すと、
やたら過去を振り返る記事が多い。昔を懐かしむというのは、年をとった証拠だろうか?

M君は、とても絵が上手く手先が器用で、美術の授業では常にヒーローだった。サッカー部に入っていたとの記憶があるが、そこで活躍していたかは定かでない。元英語教師だったという私の母の友人が開いていた私塾めいたところに2人で1年ほど通ったことがあったが、そのきっかけも今となっては定かではない。ただ、何故か周りにはそのことを秘密にしていたような記憶がある。母の友人である彼女には私たちと同い年の娘さんがいて、おそらく少年の微かなプライドで、同学年女子のいるそこに通っているということを頑なに知られたくなかったのだろう。無論、その娘と何か関係があったわけじゃないが、いかにも少年らしい発想だと思う。

M君はボンクラな私より勉強が出来たはずだが、お互い切磋琢磨するライバルという間柄ではなく、なんだかとても(そのスジの方々という意味ではなくて)兄弟に近かった。当時、私はいったい何を考えて生活していたのだろう。うそでもいいから日記でも書いときゃよかったな。

私が十勝から日本最北端のまちに転居した年の夏休み、
M君は列車に乗ってひとり遊びに来てくれた。うちは狭い社宅だったが、3泊くらいしてくれただろうか。最北のまちの名所とされる場所をあちこち巡った。実家に帰れば、まだ当時の写真が残っているはずだ。楽しい数日間だった。

その後も長らく手紙のやりとりをしていたが、それもいつしかついえてしまった。
ネットもメールもない時代だった。以来、俺は私信めいた手紙なんて書いていない気がする。

なぜこんなことを書いたかといえば、
業務上、とあることを調査していたところ、昨日彼の名前を偶然発見した。
いまは十勝に戻り、手に職を持ちながら彫刻家として活躍されているようだ。数年前には私にはわからぬが、大きな賞も受賞されているとのこと。M君があのままの姿勢で芸術に取り組んでいる。うれしい限りだ。

お互い生きていればいずれ邂逅できると思っている。
M君、いずれまた会おう。