2016年8月22日月曜日

再び清水成駿氏を悼む

以前にも書いたが、
競馬予想家の清水成駿氏が8月4日に亡くなったことにショックを受けている。


改めて思うのだが、
氏は、俺にとって単なる競馬予想家ではなく、
ちょうど少年の俺が大人の入り口を迎えたときに、大人のアイテムである競馬新聞上のコラムで、無頼の匂い漂う、強い意志を持つ人の在り方を強烈に示してくれた人だ。競馬新聞コラムを読んでいる俺、ということ自体に経験値の乏しい少年は酔っていたのかも知れないが、人生で多感な良い季節に巡りあえたことに変わりはない。


競馬予想家にとって、予想の当たり外れは当然大事なことだけれど、世の中には本業の効率というか、それだけでは語れないサムシングがあることを、毅然と最期まで倒れずに示してくれたようにも思う(氏の予想には信じられないくらい波があった)。事実、氏の予想に乗って大儲け、なんていうことは、俺に限っていえば皆無である。でも、あの文章を読みたくて新聞を買う。いったい何だったのだろう?


このたび、実家にちょいと寄る機会があり、以前の俺の部屋の押入れから、20年以上前に俺がスクラップしていた競馬ノートを数冊発掘した。手にとり、懐かしく読み返すと、当時、俺は真面目に競馬を勉強していたらしいことが窺えた。憶えちゃいないが、一レース一レースの細かな買い目なんかより、どうやら競馬というギャンブルの大局を掴むことに腐心していたようだ。なんか恥ずかしくなるようなコメントも随所に書き込まれている。


総じていえるのは、
行間には、今の俺が忘れてしまった物事への純粋な楽しみが溢れている、ということ。省みて今の俺を眺めると、胸が痛くなる。そうだよ、あの頃のように好きに楽しんでやればいいんだ、と思う。


ノートには、氏のコラムが、いくつも貼ってあった。


「孝行したい時に親はなし。それが孝行か甚だあやしいが、『これ買ってごらん』と言ってみたい時もある。ただ、競馬で取った取られたなんて束の間の喜怒哀楽、それを話せる人の方がどれほど大事か。なら、今後は頭でも丸めてファンの為に尽くそうか。だが尽くそうとして迷惑になるのが予想、親父に教えるつもりでポチポチいこう。」


「これは自分の力などとウッカリ油断しようものなら、人にさっと持っていかれる。そして一度手放した女神はちょっとやそっとで戻ってくるものではない。」


改めて、氏のご冥福をお祈りします。


0 件のコメント:

コメントを投稿