2012年6月29日金曜日

タイトルから想起する(その1)

敬愛する桑田佳祐氏のソロシングル第1弾のタイトルは 「悲しい気持ち(Just a man in love)」という。1988年のことだ。

年齢がバレるが、私はそのとき17歳の高校2年。
日本最北のマチに住んでいた。

 この季節、この年代を
「夢なんてあとからほのぼの思うもの」って書いたのは「青春時代」(森田公一とトップギャラン)の阿久悠先生だったが、この鋭い指摘は今になってこそ、よく染みる。

で、桑田氏の話。

同氏はいまさら言うまでもなく、今もなお屈指のメロディメーカーであり、すでに当時唯一無二の存在であった。サザンオールスターズを休止し、KUWATABANDを経て、ソロ活動を開始し、アルバムを出し、「みんなのうた」でサザンに帰っていった頃にカブる。

サザンの活動休止前、1985年に出されたアルバムは「KAMAKURA」(かまくら)という2枚組の大作で、すれていない少年の感性では困ってしまうような曲もあったけど、シングルでも発売された「メロディ」って曲に、すっかりやられてしまった。

以降の私は、桑田氏の、そして氏が所属するアミューズ事務所のなすがまま、
恋の奴隷のようになって現在に至る。
蛇足だが、カラオケではいまだに「メロディ」の「OH MY HOT!」で音程がとれない。(必ずうわずる)

そんな中、サザンオールスターズが、北海道にやってくる、との情報を得る。
全国ツアーの宣伝を兼ねていたと思われるHBC(北海道放送)で夜中に観たサザンのライブは、そんな少年をグイグイつかんで離さなかった。

サザンオールスターズがサッポロマコマナイってところにやってくる。どこかは知らない。
しかし少年にとって、サッポロは東京砂漠。(もう意味わからん)
行くべきか、行かぬべきか。旅行代はいくらかかる。無事に帰れるか、汚れて帰ってくるか。
さあどうする。どうする高2の俺よ!



・・・・行くさ。

特電ダイヤルと格闘すること1時間、今では考えにくい(多分)バイトのお姉さんと生電話の結果、手に入れたチケットが、これ。

次回に続くかどうかも不明だが、今日はここまで。


2012年6月28日木曜日

4年物、解禁します。

長かった。実に4年である。

けっこうウキウキしながら、タイトルを決めてから、実に4年。
結局このブログは1度も人目に触れることなく、ノートPCの奥のほうに封印してきた。

事情はいろいろあるのだけれど、
素人でもサクサクできてしまうブログ環境が整い過ぎて、
猫も杓子も総ブログ化している風潮に、何気に乗ってしまうことに抵抗があったし、
サクサクといったところで、こちらの技量では、やはり操作が面倒くさくて続かねーよ、とも思った。

また、北のマチに居住する何の変哲もない一人のオッサンが、
なにがしかの私事雑記を公衆の面前にダラダラさらしたところで、
一体どうなるのか、とも考えた。

しかし、なんだかんだ書いたところで、4年も寝かせた最大の理由は、
そんなウジウジした考えを突破して、とにかくやってしまえ、というだけの構えというか、熱意というか、そういうものが明らかに欠如していた点に尽きる。

(もちろん、ブログをしようとしていたこと自体を忘れていた時期もある。そりゃ4年もずーっとそんなこと考える人はいないわね。)

ところが、である。

このたび、どうしたわけか、書きたい情熱というか、
そっち系の心の栓が、ポンッ!とひらいた(ような気がした)。
触媒が何なのかは判然としないのだが、まさにポンッ!て感じで。

そこで、また考えた。
この4年の間にツイッターやフェイスブックなんかの新たなツールが普及してきて、
今更ブログをはじめても、世の中的に程よい感じの周回遅れになるだろう、
つまり、いい時期になったんじゃね?と。

破壊王 故橋本真也さん風にいえば
「ときは来たっ!それだけだ!」
という具合。(ここら辺は、わかる人だけでいい)

何をやっても飽きやすく、長く続かない性格は私自身が十分承知しているが、
心の栓がひらいた(ような気がした)以上、
自分の感覚に素直に従い、特にノルマを課すこともなく、

蝶野選手に
「プッ」
と笑われることのないように(ここら辺も、わかる人だけでいい)

これからは、ゆるゆると何事かを記していこうかと思う。
お読みいただける方がいらっしゃるのなら、どうかよろしく見守ってください。
めくじら立てないでね。